嬉しい

 

今日はとある場所で五分間のスピーチをする機会をいただきました。

 

その一部と、5分で収まらなかった言葉たちをここに書いておこうと思います。

 

 

 

 

 

 

”今日は、初めて、こうしてみなさまの前でお話をする機会をいただきましたので、ここに来ていて嬉しいことをお話したいと思います。

それは、「あいさつをしてもらうこと」と「名前を呼んでもらうこと」です。

なんでもないことのように感じる方もいらっしゃると思います。だけど、私にとってはとっても嬉しいことです。

どんな方に挨拶をしてもらっても名前を呼んでもらっても嬉しいのですが、ここでしてもらうあいさつは、”その人に向かってしている”っていうのを感じるので、”歓迎されている”という風に感じるのです。だからこんなにも嬉しいきもちになるのだと思いました。

 

そして、その嬉しいという気持ちが私は顔にでてしまっているのか、笑顔を褒めてもらうことが何度かありました。

自分が笑顔でいるということは意識して解っているのですが、笑顔を褒めてもらったとき、いつも驚くんです。

どうして褒めてもらえるのだろう、褒めてもらえるくらいの笑顔でいるのだろう、と考えたときに、きっと”嬉しい”の気持ちが笑顔に表れているからなんだろうな、と思いました。

 

この今日のスピーチのことをお願いしてもらった日に、隣の席に座った方が「いつも笑顔が素敵だね。」と言ってくれました。

私はそのときも、とてもびっくりしたんです。驚いて、とっても嬉しくなりました。

その方とはあまりお話をしたことが無くて、だけどいつも笑顔で挨拶をしてくださるので私は安心してその方に、いつもあいさつをしていました。

いつも、笑顔であいさつを返してくださるのがとっても嬉しかったのです。

きっと、その嬉しい気持ちが、やっぱり笑顔にでていたから、褒めていただけたのかなと思います。

 

私はここでこんな風に嬉しいあいさつをもらったり、自分自身も嬉しいあいさつをしているうち、他のところでも”嬉しいあいさつ”のような朗らかで安心したあいさつをしていることに驚きました。

自分のそんな声を聞いて、気付いたのです。

無意識のうちにそんなあいさつをできるようになっていたのです。

 

私の住んでいるマンションに住んでいる人たちは、大学生の若い子が多く、

あいさつをしても耳にイヤホンをつけていて無視されたりすることがほとんどです。

無視されるのは意図的じゃなくても、やっぱり怖いことです。

だから、少し前まで私はあいさつを、とてもよそよそしく、小さめの声でしていました。

そして無視をされたりすごく早足で顔をふいと逸らして歩いて行かれたりすると、

ひとりごとをぶつぶつ言いながら腹を立てていました。

「あいさつぐらいしろよ!」とか「なんやねんあれ、嫌な感じ!」とか。

 

でも、朗らかなあいさつができるようになった私は、もう無視されても腹を立てたりしません。何も、思わない。もう、そんなこと、すぐに忘れてしまいます。

そんなことよりも、朗らかなあいさつができたことが気持ち良く、そんな自分に対して嬉しい気持ちのほうが大きいからです。

 

その代わりに、気持ちの良いあいさつを返してくれる人に出会うと、”うれしいなぁ”という、優しいにこにこした気持ちが生まれるようになりました。

そして不思議なことに、普段あいさつをされたことがないような道であいさつをしてもらう、ということがあったのです。

 

きっと私の中のなにかが変わって、それが空気から伝わったのだと思いました。

ここでの「嬉しいあいさつ」で、こんなにももらっているものがあるのです。

 

だから、やっぱりここに来ることが嬉しくて、大好きです。

 

 

以前コンビニでアルバイトをしていた時、個人の目標をひとりひとりバックヤードの壁に貼ろうということになりました。

そのとき私が書いたのは

「笑顔になる笑顔!」

です。

 

嬉しいきもちに胸を張って

「笑顔になる笑顔」でみなさまを笑顔にしたいと思っています。

 

これからもどうぞ、よろしくお願いいたします。”

 

 

 

 

 

 

今日話したのはそのまま”嬉しいこと”。

 

私は毎週ここに通って、すごく勉強になるお話を聞かせていただいているのだけど

学びや気付き、と同じくらいに

いつも本当に嬉しい気持ちを持ち帰らせてもらっていて

 

それはスピーチで話した通り、「あいさつしてもらうこと」「名前を呼んでもらうこと」。

いつも”嬉しい!”って思うんです。

ぱあっと明るい気持ちが胸に開くような”嬉しい”なのです。

 

日記にも、”今日は〇〇さんが声をかけてくれた”とか、

”〇〇さんが笑顔であいさつしてくださって嬉しかった”とか

”〇〇さんがこんなことを教えてくれた。嬉しい。”とか

特に「嬉しかったことを書く」と決めているわけではなくて

ただ嬉しかったから書きたくて書いてしまうくらい。

 

なんだか小学生みたいな日記のようだけれど

この”嬉しい”は私にとって大事にしたいもので

胸にていねいに仕舞いたいものだから、日記に書くのだと思う。

 

 

今日のスピーチのこと、いろいろな人が褒めてくれた。

とってもとっても嬉しかった。

 

思わず、というように自然に手を握ってくれた人がいて、

私はその人が元々大好きで

でもその行動がすごく嬉しくて、大好き!

 

「飾らない言葉で素直に話していて」「すごくピカピカしていた」

と言ってくれた人もいて

その言葉そのものも、私に言葉をくれたことも、嬉しかった。

名前を呼んでくれた。やっぱり嬉しかった。

 

 

自分のきもちを受け取ってもらうって、こんなにも嬉しい。

嬉しいのことを話して、また嬉しいをもらって

うれしいって本当に表すのがむずかしい。

伝えたくて仕方ない思いなのにな。

だけど本当は、笑顔だけでじゅうぶんなのかもしれない。

 

 

時間も、機会も、思いも心も、目も耳も、

ぜんぶにありがとう。

 

 

 

 

日記

 

一枚の写真ばかり見て過ごしている日々があった。

 

大好きな人とショートケーキが写った写真。

後ろは部屋。

 

無かったことになることばかり恐れていた。

みんな知らないから。

 

ふたりしか知らないことをひとりで知っていても

怖くなるだけだって知った。

ふたりしか知らないことはあんなにも安心だったのに。

 

 

「死にたいって毎日思ってた。」

その言葉を聞いても私は驚かないけど

よくあることだって思ってるわけじゃなくて

 

どうして生きていてくれてありがとうっていうきもちは

口に出すのが難しく感じてしまうのだろう。

どうしてここまで来てくれて嬉しいって

じょうずに言う術を、ずっと、知らないのだろう。

 

 

生きろ。

 

誰に言いたいわけじゃなく、言いたい。

 

生きろ。

 

ここにいる。生きてる。それはここまで来たからだ。

 

 

 

生きるって今ここにいるってことなんだ。

 

私は今はもう、写真ばかり見て

なくなることばかり恐れている女の子じゃない。

 

 

空も、人も、見てる。

目の前にあるものを、ちゃんと見てる。

 

私がここにいることが

全部

いてくれてありがとうっていうことなんだって

 

きっと伝えられる。

 

 

 

日記

 

おしえてもらうこと

ってその人の持ってるものを分けてもらうみたいで嬉しい。

 

その人の時間を自分に使ってくれているというだけで

とても大事な時間に思えるし、

きっとそこまで深く考えずにしてくれているのだろうけど

私はこの大事な時間からもらえるものを大事にしたくて

全部を受け止めたいと、零したりしたくないと思う。

 

それはどんなことにも隠れていると思う。

そこにあるだけで、あるのだと思う。

 

なんでもないように話していても

なんでもないような話に見えても

その人にとって、私にとって、どういうものなのか見極めていたい。

 

そこに心があると気づいたら、片手間に聞く、ということができない。

立ち止まって、ちゃんと向き合わずにいられない。

それってとても不器用なことなのかもしれない。

結果的に、立ち止まったことで、迷惑をかけることもあるかもしれない。

それでも私の中の優先順位はどうしても譲ることができない。

 

”その人”が、そんなこと望んでいなくたって

私は気付かずにいることがくるしいから。嫌なんだ。

どうしても、嫌。

 

どうしても思いの方に、目が向いてしまうみたいだ。

 

 

昔、付き合っていた人が何度も何度も同じ話をしてしまう人で

きっと仕事でたくさん考えることがあるからって私は思っていたのだけど

話したことを、どうもさっぱり忘れてしまうらしい。

何度目かの話でも、同じように表情を変えたりするものだから

きっと本当に忘れているのだな、と思っていた。

 

その時、私は「それ、前に聞いたよ。」とか「二回目だよ。」とかは

言わないようにしていた。

 

だって、聞いて欲しいっていうきもちのときに

そのきもちを折ってしまうような気がしたから。

話したい!と思って、

でもその気持ちの行き場がなくなってしまうというか、、

 

どうして同じ話なのに聞いてくれるの?って彼に言われたときに

そのことを話したら、感心してくれた。

すごく、素直でまっすぐなひとだった。

 

結局内容じゃなくて、

そのときの”話したい”の思いの方に目が向くから

それを優先したかったのだと思う。

(3回目、4回目くらいになると、実は前にも聞いたよって言ったりもしていたけどね。)

 

 

リアクションや受け答えも、手を抜かないというか、

「聞いた、聞いた。」みたいな態度は絶対にしたくなくて

 

話を聞く、というよりも、話すって本当は

思いを受け取る作業なんじゃないかと思う。

 

 

 

おしえてくれるとき

その人の持ってるものを分けてもらうような気がして嬉しくて

 

例えばお辞儀の角度や

お腹の前で重ねる手を、右手を下にすること。

その理由を教えてくれたこと。

そういうことを嬉しいという気持ちで私は受け止めている。

 

綺麗にできなくても

上手じゃなくても

嬉しくて、ありがとうって、忘れないことで受け止めているの。

 

その人の持っている素敵なものを見せてもらったみたいなきもちになる。

それは大事にしている石ころを見せてもらうのと同じで

おきにいりの本を見せてもらうのと同じで

たからものの指輪を見せてもらうのと同じ。

 

不器用で、面倒くさがられることもあるのだろうなと思う。

 

だけど思いで見ることができる

自分のこの個性のことを

私はちょっと誇らしく思うんだ。

 

わたしのだいじなもの。

 

 

うつくしい人 西加奈子

 

 

小説の中に”自分”をみつけることがある。

そのとき、「知っていたのに、知らなかった」と思う。

 

大きな図書館で歩いていてみつけた小説の中に

あまりに「知っている」”自分”を見つけて迷いなく借りた。

 

その小説はずっと前から出会っていたのに、どうしてか、この中にある”自分”を見つけていなかった。

文庫本を本屋さんで見たことがあって、何度も手にとったことはあって、それは著者の西加奈子さんの作品が大好きだから。

でも、読まずにいた本だった。

それなのに、図書館で手に取った単行本の表紙を見たときにちいさく胸が高鳴ったように思った。開いてみて貼り付けてある帯に書いてある文字を読んで、はっ、とした。驚いたような、息を吞んだような、胸がきゅっとするような感覚だった。

 

”日常が続いているからこそ、

その残酷さがあるからこそ、

私たちは生きていける。”

 

 

 

(※小説の引用有、内容に触れています。)

 

 

 

読んでいるあいだ、夢中だった。そこここに、”自分”がいたから。

 

図書館から借りてきた次の日、私は小さな旅行にでかけました。

旅行と言っても日帰りで、電車で片道3時間くらいかけて出掛け、小さな山に登って帰ってくるだけ。

連休の中日を使って次の日の予定は何も入れず、

長い時間をかけて出掛けて、ただその日だけを楽しむ一日が久しぶりだったから、私にとっては小さな旅行だった。

 

小説の中の女の人も「ただの旅行」に出掛ける。

小さな旅行の長い移動時間、この小説を読んだり居眠りをしたり外の景色をぼーっと眺めたりして過ごした。

窓に映る景色は知らない場所を映していて、田舎な風景を見せたり、海のことも見せてくれた。私はずっと旅をしているみたいで、小説の中の女の人が回想するとき一緒に少女だった頃を思い出したり、いつかのことを思い出したりしていた。

時間も場所も旅をしているみたいだった。

 

 

”私は他人の苛立ちに敏感である。ほとんど超能力と言っていいほどだ。

分かりやすいサインなどなくても、にこにこと笑っていても、その人が苛立っている、ということが分かる。いや、分かってしまう。あまりにささやかな仕草でそう思うので、それが杞憂だったことは多々あるが、少しでもそれを感じ取ると、萎縮する。ほとんど恐怖で泣きそうになる。苛立たせている自分がとても無能な人間であるように思うし、相手の私に対する評価が下がることの恐怖で、いてもたってもいられなくなる。”

 

コピー機から出来上がった書類を取ろうとして、「重い。」と思って、座り込んだまま動けなくなって、泣き出していた彼女の丸まった背中が自分と重なる。

ほとんどそれは「恐怖」で、「いてもたってもいられなくなる」こと。

 

 

”「泣くことないじゃない」などと、言われたらどうしよう。そうだ、泣くことなどない。違う、あなたに言われて泣いたのではない、違う、分かって、”

 

”「疲れてるのね。」

その一言が、私を徹底的に打ちのめした。”

 

 

どうして知っているの?と言いたくなった。

誰にも話したことが無い自分がここにいたから。誰にも、話せなかった。話す為の言葉を知らなかった。今も分からない。だけど、ここにあった。

 

「泣くことないじゃない」と言われとき、そう思われていたらと思うとき、

私の心の中は「違う、違う、違う、」って

それだけだった。それよりももっと多くの気持ちでいっぱいだったけれど、それだけだった。どんな言葉にすればいいのかわからなかった。

 

苛立たせた「無能な人間のような自分」に絶望していたし、

この怒りという感情を感じていることが苦しかったし、その原因が自分であることに「いてもたってもいられ」なかった。

誰かを傷付けた可能性に傷付いて、大事にできなかったかもしれないことが恐怖だった。

 

そんな私に向けられる同情や労りに、叫び出したくなったりした。

「徹底的に打ちのめされた。」

 

どうして知っているのだろう。

どうして知らなかったのだろう。

小説の中に見つけた”それ”は、あなたであって、著者でも、小説の中の人物でもない。

 

 

”どうして周りからのあからさまな非難の眼を、そんな風にやり過ごすことが出来るのか。どうしてそんなに、奔放でいられるのか。”

”恨めしくて、そして、羨ましくて、仕方がない。”

 

人を蔑んだり、ばかにしていたり、卑怯で、泣き虫で、弱虫で、

自分の醜さに不安になる。だけどこの本は、頁の左上に表題である「うつくしい人」という文字がずっとあって、そんな自分を”うつくしい人”だと言ってくれているようで、不安になる度にあんしんさせてくれた。

 

 

 

”小さな頃、私はよく泣いた。

何か原因があるわけでもなく、何でもないときに、急に泣き出した。両親は理由を聞いても何も言わず、一向に泣き止まない私を困ったように見るだけだったが、姉は違った。

「ゆりちゃんが満タンになった。」

そう言って、私が一番してほしいこと、手をぎゅうっと握ることや、(中略)をしてくれた。”

 

どうして、気付いてくれたのだろう。

それは”ゆり”の姉が「生まれてからずっと愛され、愛し続けてきた」からだろうか。

「満タンになった。」ことに、自分で気付いたのも、ずっとずっと時間がかかった。

私はどうしてだかわからなかったし、どうしたらいいのかもわからなかった。

自分を捕まえることができなくて、どれかが偽物なんだと思うようになった。

どれが本物かわからなくなった。

 

 

私は今も、ときどき満タンになる。

だけど自分をつかまえることができるし、どこにいるのかわからなくなっても、時間がかかっても戻って来られることを知ってる。

 

自分をみつけたから。

何度も、何度も、みつけて、みつけ続けているから。

 

 

 

この小説にはうつくしい人たち、うつくしい瞬間が詰まっています。

私はこのなかにいる人物たちひとりひとりから、”自分”を見つけて、その度に不安になったり安心したりしました。

そして綺麗だなぁとただみつめたりしました。

 

 

うつくしい人

というのは、優しくて、心強いことばのように思います。

 

 

 

日記

 

あんしんだと思っていたひとりの部屋に、昨日の夜大きなクモが入ってきた。

私は虫が大の苦手なので、なにかでつついたりすることもできず、少し離れたところから音を立ててみたりしながら追い出そうと奮闘していた。

しばらくしてから、窓を開けて、ただ出ていくのを待つことにした。

彼も外に出たいはずだ。きっと外のことはわかるはずだ、と思ったから。

外の方へ近付く度に

「いいぞいいぞー」「お外はそっちだよー」「がんばれがんばれー」「もうすぐお外にでられるよー!」

と応援しながら見守っていたら、数時間後、無事出て行ってくれて、一件落着しました。

 

話をしているとき、心がどこにあるのかわかってしまう。

自分が緊張や言葉を組み立てるのにいっぱいになって、自分の心がちゃんとそこに在ることができていないときもあるし、話に心の耳を傾けてもらえていないのがわかるときがある。

反対に、あまりにまっすぐ届く瞬間を感じたこともある。

あまりにまっすぐ届いた瞬間も、知っている。

心が触れ合ったときを知ってしまっているから、きっと期待してしまうのだろう。

話しているときに心をどこかへ漂わせていることがわかったとき、私はどこにいるのかわからなくなる。ここにいようとするのに必死になる。

自分の思いを諦めたくないからだ。

どこかへ届くかもしれない可能性や、かたちにすることに対して。

 

自分が差し出した心だけがぽつんと残ってしまったとき

悲しいわけではなくて、虚しいでもないのだけれど

大事にしてもらえなかったねって受け容れるのに少し時間がかかってしまう。

ひとのこころなんて、わからないから

否定も肯定もしない。

ただ、受け容れるのに時間が必要になるだけ。

 

受け容れることを辞めてしまったら、次に心を差し出す勇気を持てない。

届けたいなら、どこへも行けなくなることも覚悟で、差し出さないといけない。

誰かの大事になる可能性を造り続けるには、大事にされないこともあるリスクが必要。

ひとつひとつと向き合いながら、思いを諦めない。

 

人を愛するほどに、ひとりになりたくなる。

せかいを信じるほどに、ひとりになりたくなる。

そんなことに、ときどき私は困ってしまう。

どこへ行きたいのだろう。わからなくなる。

 

何かに対してのとくべつなきもちの大きさも、人それぞれに違ってる。

例えば”嬉しい”の大きさも。

私はもしかすると大きく持ち過ぎてしまうのかもしれない。

そしてそれを分け合いたくなってしまう。

喜びや幸せの気持ちを分け合えたら嬉しくて、そうしようとする。

分け合えるかはもちろん、受け取り手次第だけれど、

私は分け合えるかもしれないことに意味を持ってそうするんだ。

こないだそのことをすごく否定されて

気を使ってるのだと思われたみたいだけど説明も聞いてもらえなくて

正直、少し悲しくなった。

分け合えることが無いことがあるのは解っていたけど、そんな風に嫌悪感を抱かせてしまうなんて考えなかった。

人ってやっぱり違うし、わからないんだ

って再認識できたのは勉強になった。

少し悲しい気持ちにはなったけれど、それでも私は分け合うことを諦めたくないし、

その先にあるかもしれないとくべつを信じたい。

だから辞めない。

ただ受け容れるのに少し時間が必要なだけ。

 

 

愛はエネルギーが必要だ。

だから逃げ出したくなる。ひとりにさせて!と叫びたくなることがある。

それは自分に対して言う言葉。

せかいはいつだってひとりにさせてくれるし、ひとりにさせてくれない。

 

それでも愛を諦めたくない。

うつくしいものに触れることを諦めたくない。

 

私は生きてるから。

今、生きてるから。

 

生きていたから。

ここに、生きていたから。

 

 

日記

 

ここ数日間、いっぱいになってた。

帰ってきて、たくさん食べてしまってそのまま眠ってしまう。

少し前までの自分がしていた方法。

いっぱいになって、見ていられなくなって、どこへいけばいいのかわからなくなること。

 

私はゆっくり、だと思う。

 

今朝、お風呂に入ることにして、お天気だから布団カバーとシーツも洗濯して、

溜まっていた布巾の漂白もしよう。

置いておいたオレンジの皮で蛇口を磨いてみよう。

そんな風に過ごしていたら、自分が戻ってきたようなきがした。

 

シーツたちを干すのにベランダへ出たとき

ふいにそこからの景色を初めてちゃんと見たら

あまりにきれいで、驚いた。

朝の光をうしろに、可愛い百日紅の木が見えた。

 

ずっと、虫に出くわすのが嫌な気持ちばっかりで

ベランダからちゃんと景色を見ることが無かった。

ここに住んでから、もう五年以上経つのに。

 

うれしいきもちになった。

また、この家が好きになる。

 

ゆっくりでいいんだな

私は、ゆっくりが、いいんだ

 

自分のことをみつめることも、誰かの感情を受け止めることも、

意味を理解することも、かたちにすることも。

 

きもちを知ること。

 

ゆっくりがいい。

早く山に会いたい。

 

 

 

いつだって飛んでいく準備はできてる。

大事なひとが私を必要としたとき、私は絶対にそこへ駆けつけると決めている。

 

そのときはそのときしか無いと、知っているから。

 

 

助けようと思った手が、届かない

 

どうしたらいいかわからなくなったり

投げ出したくなったりもした。

 

それでもずっと、飛んでいく準備はできていた。

駆けつけるって決めていた。

 

こわくなったとき

苦しくてたまらないとき、

その瞬間はそのときにしかないことを知っていたから

何も言えなくても、うまく言えなくても、

電波越しでも、文字だけでも、そばにいたかった。

 

 そばに、いられたかな

 

「行こうか」って言ったら

いつも「来ないで」って言っていた。

だけどその距離でしかいられないのもわかってた。

だけど私はいつでも覚悟ができてるっていうのを知っていて欲しかったんだ。

それがあなたのおまもりになったかはわからないけれど

おまもりになる瞬間がいつかあるとしたら、思い出してくれたらいい、と思った。

 

あなたがいなくなりたいと思うきもちをいちばん近く理解したかった。

そのものをちゃんとみつめたいと思って

もし、例えば、あなたの「いなくなりたい」が「さびしい」を意味するなら

それでいいと思った。そうであるほうが、いい。

いちばん近く理解したかった。

あなたはいなくなりたいと思っていた。

 

あなたがいなくなろうとしたとき

わたしは駆けつけることができなかった。

あなたはわたしの名前を口にしたと聞きました。

わたしはそこにいなかった。

わたしはそこにいたかった。

駆けつけたかった。

いつも、その準備ができていたのに。

覚悟はできていたのに。

 

そこにいなかった私は、なぜだか、その日のビジョンを何度も頭の中でみています。

 

いちばん近く、理解したいから。

 

起こるかもしれなかったことだと心にちゃんと留めたかった。

あなたは、いなくならなかった。

今もこのせかいにいてくれてる。

だけどあの日の思いは、無かったことにはならないから。

あなたは、忘れてくれたらいい、と思う。

でもわたしは、忘れたくない、と思う。

あなたが大事なひとだから。

 

まだ、知っていてくれますか。

私はいつだって、飛んでいく準備はできてる。

駆けつける覚悟を持ってる。

 

私はあなたに伸ばした手があることを誇りに思うよ。

今も、ずっと、伸ばし続けていることは

知らなくていいのだけど

もし必要とするときがきたら、そのとき、気付いて欲しい。

 

 

生きてくれて、ありがとう。