ある人と、ときどきお散歩をします。

 

 

7時くらいに私の家の最寄り駅で待ち合わせて

河川敷の道を1時間くらい歩く。

茶店でモーニングを食べて、散歩をして、

私の家まで歩いて、9時か9時半くらいにばいばいする。

 

 

 

 

私は仕事が平日に休みで

その人は週末がお休み。

 

「休みが合わないね」って話したときに

「朝ならあいてますよ」って冗談混じりに言ってみたら

こんなふうに会ってくれるようになった。

 

 

ただ、朝、散歩をしながらなんでもないお話をして

朝ごはんを一緒に食べて

また歩いて、なんでもないおはなしをする。

 

 

仕事前に誰かと時間を過ごしてしまったら

きもちがせかせかとしてしまうのじゃないかって

最初は少し心配してた。

 

私はよく、とてもひとりになりたくなる。

ひとりの時間が足りていないと

意味もなく胸がせかせかと焦ってしまう。

 

だから、”お散歩”っていうのは

とても魅力的で嬉しいことだと思っていたけど

ちょっと心配だったのだ。

 

 

だけど、全然違ってた。

 

帰ってきたとき、すごく充実感で満ちてて

むしろゆとりがあるような

ゆったりしたものが、胸にあったんだ。

 

こんなに嬉しいものなんだなぁって。

 

大好きな朝、大好きなお散歩、

それを誰かと共有できていることがなんだかとてもうれしいきもち。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お散歩をしているとき、ふと隣を見たら

上気している頬があまりに綺麗なピンク色で、はっとしてしまった。

 

 

 

あるとき、「人の顔とか、よく見たりする?」

って言われて

「目は、結構見るかもしれない」

って言ったら

「えー、見られてるって思ったら、嫌やなぁー」

って、その人は言っていたから

こんなこと思ったなんて知られたら気持悪がられるかもしれない。

 

 

でも、きれいだなって

なんだかいとしいきもちになったのだよね。

 

 

人のうつくしいところって

ふとしたときに現れて、いつもはっとしてしまう。

 

短く見惚れてしまうような感覚。

 

なんで”短く”なのかっていうのは

きっと理性が働くからだな。

 

 

 

朝があまりにきれいで見惚れてしまうように

そのときの瞬間に、はっとしてしまうのだ。

 

 

 

そのときのことを思うきもちっていうのは

「いとしい」としか形容できないんだな。

 

 

その瞬間が増えるほどに、ちょっとだけ切なくなっていくようなきがする。

 

 

たぶん、「いとしい」ってかけがえがなくて

だから切ないのだよね。

 

 

このきもちが膨らんだらくるしくて

どこにもいられないような、大事なくるしさになって

 

 

 

 

朝がきれいなのも、かけがえのないものだからで

 

時間がそこだけにちゃんとあるような

その人ととお散歩の時間が、私、大好きだな。

 

 

まよなかのおはなし

 

 

雨降りのおとを聴いているまよなか。

 

ねむれなくなりました。

 

だからたからばこに仕舞っているおはなしたち、

みたいなことを話そうと思います。

 

ひとつは

10個、歳の離れたふたりのデートのはなし。

お父さんとお母さんがまだお父さんとお母さんじゃなかった頃のはなし。

船に乗って、旅行かな。

ともかくデートをしていて

歳も離れているんだけど

おぼこいお母さんと、おっちゃんっていう感じのお父さん。

旅先の知らない人に

「娘さんとおでかけですか?いいですねえ。」

と言われてしまって

「嫁や」

って、お父さんが言ったっていうエピソード。

私はこのおはなしが大好きなんだー。

思い浮かべると、愛おしくて笑っちゃう。

だけど本当に船なのか

どうして船なのか?

いつこんなおはなしを聴いたのか。

私の記憶は曖昧で、

どこまでが本当なのか、わからない。

そのときの写真を見せてもらったって記憶してるけど

それも本当かわからない。

でも、私はそれを見たように感じていて

それが”本当”とか”嘘”とかって

とるにたらないことだなって思う。

「事実」だけが本当とは限らないし

そもそも”本当”なんて本当の意味でおはなしにできることなんて

ひとつもないのだもの。

 

小説の「きいろいゾウ」で

ムコさんとツマさんが駆け落ちした電車のなかで

心細いきもちだったふたりの前で

酔っ払いのおっちゃんが

「グッドナイト、グッドナイトベイビー

涙こらえて

今夜はこのまま

おやすみグッドナイト

グッドナイト、グッドナイトベイビー

涙こらえて

楽しい 明日を 夢見てグッドナイト」

って歌っていたというエピソード。

これも大好きなおはなし。

この小説でこの曲を知って、大好きになった。

こんなうたを

酔っ払いのおっちゃんの鼻歌で聴けたふたりは

きっととてもあんしんだっただろうなあって。

こもりうたみたいにやさしく響くうた。

大人もみんな、こもりうたを必要としてる。

みんなあかちゃんだったんだもん。

そして大人みたいに振舞って、またあかちゃんみたいな

素直さをみつけていくんだ。

私はふたりじゃないけれど

もちろんこれは小説の中のできごとで

なのに目の前で起きていたことみたいな記憶。

ほんとうに、とるにたらないことだ。

 

学生の頃

ある同級生の男の子が、わたしのこと

「今日かわいかったーーーー!!!」

って自転車漕ぎながら言ってくれたっていうエピソードは

同級生の誰かから聞いて

それはもう、とびきり嬉しかった。

だからたからばこにとっている、ひとつの大好きなエピソード。

このおはなしだって

私は直接見たわけでもなく、誰かから聞いた話で、

記憶の中で何かがすり替わっているかもしれないし

どこまで本当のことかわからない。

ただ、その話を聞いたときに、とっても嬉しいきもちになったことは憶えていて

そんなことが自分に起きたことが

とってもたからものになったんだ。

 

その男の子と喋った記憶は

教室でふらふらひとりで歩いてた私に

突然男の子が配っていたお土産のお菓子を

私にもくれたこと。

そのときのことはなぜだかよく覚えていて

それ以外にお喋りをした記憶がほとんど無い。

 

あの頃私はまだまだ人見知りが克服できてなくて

特に男の子とお喋りするのが苦手で

緊張しちゃってすぐ顔が赤くなってたなあ。

 

私はいつも自分でいっぱいいっぱいで

全然、彼のことも知らなかった。

 

8年前の彼のことは、たぶんあんまり知らないままだったけど

8年ぶりの彼と、ちゃんと目を合わせて素直に話せていることに

すごい、なんか、感動した。

嬉しいなあって思った。

あの頃のふたりだったらきっと有り得ないことだろうなあって

私もとげとげしていたし、自分を守るのに必死だったし、

彼ももうちょっと、どうしたらいいのかわからなかったと思う。

 

なんか、こんなふうにとくべつに思うのは

きっと私だけなんやろうけど

こうやっていちいち大事にしていたり

ひとりでたからばこにたからものを集めていたり

そんな自分がおばかだなあって

なんだか愛おしくなっちゃう。

 

きっとこんなとくべつも

ほんとうにはとるにたらないもの。

それってとってもあんしんなこと。

 

思いが大きくなり過ぎるけど

それが私だから

誰とも比べずに

大事にしたいもの、大事にして

胸いっぱいになりながら

あんしんする。

 

 

 

 

グッドナイト グッドナイト ベイビー

涙こらえて

楽しい 明日を 夢見てグッドナイト

 

 

 

 

 

aini diary

 

きのうの夜。

なんだか心細くて、ゆっくりと不安で、

 

部屋から外を見てみたら、半月くらいの月がまっすぐ浮かんでいて

すこし星も見えて、空が綺麗だった。

 

だから、こんなときは、どうしてあげたらいいのだろうって思って

一日を、もう、終わらせることにして

 

やさしい魔法のシロップをあたたかいお湯で飲みながら

まっすぐでやさしくて暖かい小説を読みながら

ときどきそこにいてくれる月を見上げて夜を過ごした。

 

魔法のシロップにはちいさな言葉が込められていて

その言葉を聴きたくなって、紙を開いた。

 

 

 

穏やかに

穏やかに

星の輝く夜に

ゆっくりと優しく溶けていくように

 

I can't stop yawning, It's time sleep.

Good night and sweet dream.   

 

 

 

私は英語がめっきりわからないので、調べてみた。

 

 

”あくびがとまらない。もうねむるじかん。

すてきなよると、すてきなゆめを。”

 

 

 

ぜんぶがやさしくて愛らしくて笑顔がこぼれた。

 

その静かな夜に包まれて、わたしはすこし、あんしんした。

 

 

 

 

 

 

今朝、起きたら

大好きなともだちからメッセージが届いていた。

 

私が贈った包みが届いたよ、との連絡だった。

 

「とびきりのタイミング」「声を上げて泣いた」

と言ってくれた。

 

私は

どうしてそこにいられなかったんだろう

すぐに飛んで行って、抱き締めてあげられないんだろう

って思ったすぐに

私の贈り物が代わりに行ってくれたんだな

って思った。

 

手紙にも似たようなことを書いたけれど

絶対に他人(ひと)の思いをわかってあげることはできないけど

想像することで、寄り添うことはできると思うから、

わたしはそれを今、しているし、していたいと思う

って思ったんだ。

だからそれを伝えたくて、贈り物と手紙を送ったの。

 

それが、届いたんだなって

届いて嬉しい。って思った。

 

 

 

胸に、心に、届くことって

誰も意図せず起きたりもして

 

それは包み込むように、だったり

いっぱいにひろがるように、だったり

あかるい陽だまりみたいな光、だったり。

 

それは直接的なものだけじゃなくて

具体的なアドバイスだけじゃなくて

 

例えばまっすぐに浮かぶ月があったこと。

やさしい音のするうた。

あたたかさを感じるお菓子。

その人の文字。その人の笑顔。目。声。

くうきが心地よかったこと。

魔法みたいなのみもの。

包み込むみたいな布。おふとん。

 

人が救われるときって、具体的な”何か”だけじゃなくて

”ひかり”だけじゃなくて

 

そういうものをわたし、届けたいなって。

いつも思ってる。

 

わたしが生きてるなかで、そういうことの可能性をひとつでも増やしたい。

 

ひとつに100%を懸けるわけではなくて

ひとつでも増えるようにって思ってる。

そんな過程も大事で大切で大好きで楽しいんだ。

 

 

 

ひとを救いたいってまっすぐに思っていたけれど

救いたい、なんて、なんておこがましいことを考えていたんだって思った。

そうしたら「救いたい」は思ってはいけないことになって

わたしはどんどん、自分を信じられなくなっていった。

 

でも、救えないことを嘆くことと

「救いたい」を思うことは違うんだ。

 

なにができるのだろうって考えることは

それだけで寄り添うことになるんじゃないかって

 

間違って、傷つけて、傷付いたらいいんだって

 

自分には与えられるちからがあるって

信じなきゃ、「救う」なんてできないんだ。

 

 

 

思うことは自由なんだ。

誰にも奪われないし、あなただけのもの。

 

愛 には 信じる が必要

ってある人が言ってた。

 

大事にするって信じること。

 

 

 

わたしはわたしの思いを大事に思う。

だからわたしの思いを信じるんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

no title

 

うれしいがおおき過ぎること。

 

例えば名前を呼んでくれたことや、目を合わせて話しかけてもらえたこと。

そういうことを特定の人だけじゃなく嬉しくなって私は日記に書いたりしちゃう。

そういうことが、きっと私はおおき過ぎるんだってなんとなくずっと気付いてた。

それに、自意識が高いほうだから、扱い方には気を付けるようにしてる。

私はこの気持ちに説明を、自分でもできない。

 

恋心だと言われたら、

はっきり否定することができない。

恋ってなんなんだろう。

そうしたら私みんなに恋をしていることになる。

 

例えばその人のことが数日間頭から離れなくなったり

ふとしたときに思い出して嬉しくなったり

ずっとずっと、思い出すことをおまもりにしたり。

もし、知らずに自分のことを愛せずにいるのだとしたら

誰かにこんな思いを与えてるあなたはあなたを誇らしく思って欲しい

なんて思ったりする。知ってほしいと思う。

それが、ずっと、だったり、数年経って思い浮かべたりする。

そんな人がたくさんいる。

 

そういうおおき過ぎる思いを、持て余している。

 

そのままを伝えることができないから

私にも説明ができなくて

だけど私だけが知っていて大事にするにはおおき過ぎて

どこへ行けばいいのかわからないまま。

ときどき途方に暮れる。

 

 

 

例えば素直さに胸いっぱいになって泣き出しそうになったり

その笑顔から伝わるものに胸いっぱいに嬉しいが溢れたり

優しさに触れてあんしんしたことが恥ずかしくてあたたかかったり

そういうことに 有難うがいっぱいでたまらなくなって。

 

 

思う。

おおきいこと。

 

あるひとは、うたうたい。

歌になる。からだ全部使って、思いが生まれるときにうたが生まれる。

 

誰かはきっと、絵を描いて

誰かはきっと、小説を書く。

 

誰かは踊り、誰かは話し、誰かは演技を通して表現する。

 

私は、

 

 

こうして文章にしてみても

届かなくて、うまくできなくて

ずっとなにかになるのを望んでる。

 

…ずっと誰かに受け容れてもらうことを望んでるんだ。

 

それはいけないことだと思ってた。

だからずっと蓋をすることばかり考えてきた。

 

本当はそのままでいたい。

私は私で生きていたい。

 

こうして足踏みしながら探してる。

 

一秒ごとに景色は変わってるはずで

だから、だいじょうぶ。

 

 

ことばって無意味なんだ。

だけど同じくらい大きい意味を孕んでる。

 

 

 

 

文通

 

朝から雨に濡れた。

手紙を三通書いた。

郵便局に二回行った。

欲しかった切手が買えた。

長い日記を書いた。

 

文章を書くことが好き。

日記を書いているとき、楽しい。

 

文通も、大好き。

そのために切手を集めているのも楽しいし

送るとき選ぶのも嬉しい。

ポストに投函するときも

ポストに届いた封筒を見つけたときも

うきうき。嬉しいきもち。

 

そのひとの文字と言葉で届く手紙。

ちゃんとそのひとのところを住所で宛てて

その人の名前をきちんとフルネームで書く。

 

大切な思いも、拙いことばも、

きっと手紙にすれば届くような気がする不思議。

 

お手紙を書いてねって言ったら

書けるひとと書けないひとがいるんだよって言ったひとがいた。

でも、書こうとしてくれた。

なまえをよんでくれるだけでじゅうぶん。

 

文章力をあげたいって言っていたから

文通のお誘いをしたら

書くから添削してねって言われて

唖然として、笑っちゃった。

へんなの。

お手紙に正しいも間違いも無いに決まってるのに。

 

お手紙って嬉しい。

わたし、文通してくれるお友達がいることが自慢。

 

字を書くのも楽しい。

のびのびしたり、緊張したり、へなへなしたり、粗っぽかったり、

思いに満ちて、まっすぐだったり、

おもしろい。

 

そして、あいたいねって

思うんだ。

 

 

 

五月蠅い

 

すごく、傷付いている。

ひとりで勝手に傷付いている。

 

わけがわからないけれど、ひとりで、勝手に。

 

 

帰ってきたらポストにぎゅうっと無理矢理詰め込んだみたいに封筒が入ってた。

頼んでいた可愛いお気に入りの絵柄の包装紙だった。

 

悲しくなった。

 

久しぶりに隣人が大きい声で話して笑って叫んで騒いでいる。

ぼーっとしていたら上からもドンドンドンドン騒がしい足音。

反対側の隣人もガタガタ音を立てて、五月蠅い。

若い女の子の甲高い笑い声。扉を開けたり閉めたり。

足音。足音。足音。声。声。声。

五月蠅い。

 

自分が何か言われたわけでもされたわけでも無いのに

勝手にもやもやで胸を詰まらせて

傷付いて

何で私がくるしいんだって腹を立てて

傷付いてる。

 

なんでそんなこと言うの。

聞きたくない。聞きたくない。

聞こえないように、わあーー!!!!!って

大きい声で叫びたくなった。

 

誰かを踏んずけて

自分を良く見せようとするような声が

大嫌いだ。

それを黙って聞いていることに

私は勝手にふかく傷ついてしまう。

腹を立てている自分に

いちいち傷付いている。

 

ああ、五月蠅い。

 

だれかの大事なものを

だれかが大事にしない。

 

”ありがとうございます!”

って可愛い字で書いた封筒を

届けてくれた誰かはぐしゃぐしゃにして平気にもう忘れてる。

 

誰に頼まれたわけでもないのに

ひとりで腹を立てて傷付いて

ひとりで。ひとりで。ひとりで。

 

勝手にばかにして

勝手に踏んづけて

勝手に笑って

勝手に忘れて

 

みんなみんな自分勝手。

 

みんなみんなひとりで。

 

聞きたくないのに。

 

 

うつくしいもの

 

一日本を読んで過ごしたらすごく楽しかったしすごく疲れてしまった。

 

綺麗なものだけを見ているのは簡単なことだと思う。

自分の感情を全部綺麗なものっていうフィルターにかけて見続けることも出来る。

だけど私は綺麗なものだけを見ていることはしたくないなと思う。

自分の醜い感情にも目を向けて、しっかり目を合わせていたい。

目を逸らさずに生きていたい。

人をばかにしたり、自分を良く見られたいと思うこと、

小さなことで腹を立てたり、傷付いているのか傷付いたふりをしているのか、

自分の傷に夢中になってしまうこと、

なにかを大事にしないこと、ぞんざいに扱っていることを気付かないふりをして、

そんな感情たちと目を合わせることを辞めない。

映画や本の物語やノンフィクションには綺麗なものが溢れている。

素敵ってうっとりしたり、わくわくするものに溢れてる。

本当に魅力的で、優しい。

そこにあるときめきがとっても大好きだし、人生に必要だって思う。

だから、それだけにしない。

目を瞑ってしまいたくなるようなことも見ようとするんだ。

考えたら恐ろしくなるようなことも、しんどくなることも、

途方もないと感じることも。

 

まいにちは今ここにあるものでしかなくて

それ以外はちゃんとそのままを知ることはできない。

人のきもちだってそう。

今ここに、自分の胸にあるものしか知ることができないから

できないから知ろうとするのだと思う。

 

傷を見て、「痛かったよね。」って言うのは

本当の痛さを知ってるよなんて言いたいわけじゃなくて

「がんばったね。」とか「すごいね。」って言うのは

私が”本当”を理解して褒めたり感心してるのじゃなくて

あなたがあなた自身を理解して褒めてあげて欲しいから。

 

そんなことを伝えられるように

一欠片でも知りたい。

だから傷のことも読む、みる、聞く、感じる。

 

 

私は人間だから、動物だから、

自分のなかにあるものをからだいっぱいで表現してみたい。

 

それに理由はない。

必要ない。

 

生きてるってことを感じたい

ただそれだけだと思う。

 

こころとからだが繋がったとき

とても「生きてる!」って感じる。

 

声にきもちを乗せたとき

誰かに伝えたい思いで突き動かされたままに触れたとき

会いたくて走るとき、歩くとき

吸い込んだくうきを胸から感じるとき

 

本当は、みんな言ってる。

 

生きたい!

生きたい!

生きたい!

 

生きてる!

 

 

愛してる!