日記
あんしんだと思っていたひとりの部屋に、昨日の夜大きなクモが入ってきた。
私は虫が大の苦手なので、なにかでつついたりすることもできず、少し離れたところから音を立ててみたりしながら追い出そうと奮闘していた。
しばらくしてから、窓を開けて、ただ出ていくのを待つことにした。
彼も外に出たいはずだ。きっと外のことはわかるはずだ、と思ったから。
外の方へ近付く度に
「いいぞいいぞー」「お外はそっちだよー」「がんばれがんばれー」「もうすぐお外にでられるよー!」
と応援しながら見守っていたら、数時間後、無事出て行ってくれて、一件落着しました。
話をしているとき、心がどこにあるのかわかってしまう。
自分が緊張や言葉を組み立てるのにいっぱいになって、自分の心がちゃんとそこに在ることができていないときもあるし、話に心の耳を傾けてもらえていないのがわかるときがある。
反対に、あまりにまっすぐ届く瞬間を感じたこともある。
あまりにまっすぐ届いた瞬間も、知っている。
心が触れ合ったときを知ってしまっているから、きっと期待してしまうのだろう。
話しているときに心をどこかへ漂わせていることがわかったとき、私はどこにいるのかわからなくなる。ここにいようとするのに必死になる。
自分の思いを諦めたくないからだ。
どこかへ届くかもしれない可能性や、かたちにすることに対して。
自分が差し出した心だけがぽつんと残ってしまったとき
悲しいわけではなくて、虚しいでもないのだけれど
大事にしてもらえなかったねって受け容れるのに少し時間がかかってしまう。
ひとのこころなんて、わからないから
否定も肯定もしない。
ただ、受け容れるのに時間が必要になるだけ。
受け容れることを辞めてしまったら、次に心を差し出す勇気を持てない。
届けたいなら、どこへも行けなくなることも覚悟で、差し出さないといけない。
誰かの大事になる可能性を造り続けるには、大事にされないこともあるリスクが必要。
ひとつひとつと向き合いながら、思いを諦めない。
人を愛するほどに、ひとりになりたくなる。
せかいを信じるほどに、ひとりになりたくなる。
そんなことに、ときどき私は困ってしまう。
どこへ行きたいのだろう。わからなくなる。
何かに対してのとくべつなきもちの大きさも、人それぞれに違ってる。
例えば”嬉しい”の大きさも。
私はもしかすると大きく持ち過ぎてしまうのかもしれない。
そしてそれを分け合いたくなってしまう。
喜びや幸せの気持ちを分け合えたら嬉しくて、そうしようとする。
分け合えるかはもちろん、受け取り手次第だけれど、
私は分け合えるかもしれないことに意味を持ってそうするんだ。
こないだそのことをすごく否定されて
気を使ってるのだと思われたみたいだけど説明も聞いてもらえなくて
正直、少し悲しくなった。
分け合えることが無いことがあるのは解っていたけど、そんな風に嫌悪感を抱かせてしまうなんて考えなかった。
人ってやっぱり違うし、わからないんだ
って再認識できたのは勉強になった。
少し悲しい気持ちにはなったけれど、それでも私は分け合うことを諦めたくないし、
その先にあるかもしれないとくべつを信じたい。
だから辞めない。
ただ受け容れるのに少し時間が必要なだけ。
愛はエネルギーが必要だ。
だから逃げ出したくなる。ひとりにさせて!と叫びたくなることがある。
それは自分に対して言う言葉。
せかいはいつだってひとりにさせてくれるし、ひとりにさせてくれない。
それでも愛を諦めたくない。
うつくしいものに触れることを諦めたくない。
私は生きてるから。
今、生きてるから。
生きていたから。
ここに、生きていたから。