うつくしい人 西加奈子

 

 

小説の中に”自分”をみつけることがある。

そのとき、「知っていたのに、知らなかった」と思う。

 

大きな図書館で歩いていてみつけた小説の中に

あまりに「知っている」”自分”を見つけて迷いなく借りた。

 

その小説はずっと前から出会っていたのに、どうしてか、この中にある”自分”を見つけていなかった。

文庫本を本屋さんで見たことがあって、何度も手にとったことはあって、それは著者の西加奈子さんの作品が大好きだから。

でも、読まずにいた本だった。

それなのに、図書館で手に取った単行本の表紙を見たときにちいさく胸が高鳴ったように思った。開いてみて貼り付けてある帯に書いてある文字を読んで、はっ、とした。驚いたような、息を吞んだような、胸がきゅっとするような感覚だった。

 

”日常が続いているからこそ、

その残酷さがあるからこそ、

私たちは生きていける。”

 

 

 

(※小説の引用有、内容に触れています。)

 

 

 

読んでいるあいだ、夢中だった。そこここに、”自分”がいたから。

 

図書館から借りてきた次の日、私は小さな旅行にでかけました。

旅行と言っても日帰りで、電車で片道3時間くらいかけて出掛け、小さな山に登って帰ってくるだけ。

連休の中日を使って次の日の予定は何も入れず、

長い時間をかけて出掛けて、ただその日だけを楽しむ一日が久しぶりだったから、私にとっては小さな旅行だった。

 

小説の中の女の人も「ただの旅行」に出掛ける。

小さな旅行の長い移動時間、この小説を読んだり居眠りをしたり外の景色をぼーっと眺めたりして過ごした。

窓に映る景色は知らない場所を映していて、田舎な風景を見せたり、海のことも見せてくれた。私はずっと旅をしているみたいで、小説の中の女の人が回想するとき一緒に少女だった頃を思い出したり、いつかのことを思い出したりしていた。

時間も場所も旅をしているみたいだった。

 

 

”私は他人の苛立ちに敏感である。ほとんど超能力と言っていいほどだ。

分かりやすいサインなどなくても、にこにこと笑っていても、その人が苛立っている、ということが分かる。いや、分かってしまう。あまりにささやかな仕草でそう思うので、それが杞憂だったことは多々あるが、少しでもそれを感じ取ると、萎縮する。ほとんど恐怖で泣きそうになる。苛立たせている自分がとても無能な人間であるように思うし、相手の私に対する評価が下がることの恐怖で、いてもたってもいられなくなる。”

 

コピー機から出来上がった書類を取ろうとして、「重い。」と思って、座り込んだまま動けなくなって、泣き出していた彼女の丸まった背中が自分と重なる。

ほとんどそれは「恐怖」で、「いてもたってもいられなくなる」こと。

 

 

”「泣くことないじゃない」などと、言われたらどうしよう。そうだ、泣くことなどない。違う、あなたに言われて泣いたのではない、違う、分かって、”

 

”「疲れてるのね。」

その一言が、私を徹底的に打ちのめした。”

 

 

どうして知っているの?と言いたくなった。

誰にも話したことが無い自分がここにいたから。誰にも、話せなかった。話す為の言葉を知らなかった。今も分からない。だけど、ここにあった。

 

「泣くことないじゃない」と言われとき、そう思われていたらと思うとき、

私の心の中は「違う、違う、違う、」って

それだけだった。それよりももっと多くの気持ちでいっぱいだったけれど、それだけだった。どんな言葉にすればいいのかわからなかった。

 

苛立たせた「無能な人間のような自分」に絶望していたし、

この怒りという感情を感じていることが苦しかったし、その原因が自分であることに「いてもたってもいられ」なかった。

誰かを傷付けた可能性に傷付いて、大事にできなかったかもしれないことが恐怖だった。

 

そんな私に向けられる同情や労りに、叫び出したくなったりした。

「徹底的に打ちのめされた。」

 

どうして知っているのだろう。

どうして知らなかったのだろう。

小説の中に見つけた”それ”は、あなたであって、著者でも、小説の中の人物でもない。

 

 

”どうして周りからのあからさまな非難の眼を、そんな風にやり過ごすことが出来るのか。どうしてそんなに、奔放でいられるのか。”

”恨めしくて、そして、羨ましくて、仕方がない。”

 

人を蔑んだり、ばかにしていたり、卑怯で、泣き虫で、弱虫で、

自分の醜さに不安になる。だけどこの本は、頁の左上に表題である「うつくしい人」という文字がずっとあって、そんな自分を”うつくしい人”だと言ってくれているようで、不安になる度にあんしんさせてくれた。

 

 

 

”小さな頃、私はよく泣いた。

何か原因があるわけでもなく、何でもないときに、急に泣き出した。両親は理由を聞いても何も言わず、一向に泣き止まない私を困ったように見るだけだったが、姉は違った。

「ゆりちゃんが満タンになった。」

そう言って、私が一番してほしいこと、手をぎゅうっと握ることや、(中略)をしてくれた。”

 

どうして、気付いてくれたのだろう。

それは”ゆり”の姉が「生まれてからずっと愛され、愛し続けてきた」からだろうか。

「満タンになった。」ことに、自分で気付いたのも、ずっとずっと時間がかかった。

私はどうしてだかわからなかったし、どうしたらいいのかもわからなかった。

自分を捕まえることができなくて、どれかが偽物なんだと思うようになった。

どれが本物かわからなくなった。

 

 

私は今も、ときどき満タンになる。

だけど自分をつかまえることができるし、どこにいるのかわからなくなっても、時間がかかっても戻って来られることを知ってる。

 

自分をみつけたから。

何度も、何度も、みつけて、みつけ続けているから。

 

 

 

この小説にはうつくしい人たち、うつくしい瞬間が詰まっています。

私はこのなかにいる人物たちひとりひとりから、”自分”を見つけて、その度に不安になったり安心したりしました。

そして綺麗だなぁとただみつめたりしました。

 

 

うつくしい人

というのは、優しくて、心強いことばのように思います。